都市野営読本

オッサン中退ジジイ見習い

【徒然なるままに、下降していく/腰痛考(ブログのコラム再録)】

■「月」に「要」と書いて、「腰」とは、「さすがにどうも、素晴らしいな」と、あらためて。

 人々は、メディアの発達に目を奪われている。
 が、漢字というメディアに比べれば、いかほどのものかと思わないでもない。
 いや、痛感している。


■さて、過日、大木を運ぼうとして、身体の要、腰をいためた。
「いてててて」と。
 結果、用心深くはなっている。
 お調子者の小生としては、いい傾向か。

 一応、念のため、病院へ。
「どうでしょう」
「骨に異常はないですね。ただ、今後は背筋、腹筋を鍛えてください」と、若く晴朗、屈託なき医師。
「ええっ、もう、還暦なんですが、これから鍛える?」
「そうですね。何もボディービルみたいに鍛えるという意味ではありませんよ」
「あ、歩いたり、していますが」
「それじゃあ、意味はない。筋肉を鍛える」

 曖昧に返答し、会話を終えた。
 気分は、失うばかりのプチ障がい者と言えば、怒られるだろうか。


■ただ、この間、いくつかのことを学んだ。
 例えば、起床時、従来のようにスクッとは起きられない。
 では、どうするか。

 布団の中で、まずは横向けになり、ていねいに、少しずつすこしずつ四つん這いになっていくのだ。
 四つん這いが差別用語だとしても、四つん這いになっているのだから、四つん這いと記しておく。
 そうして、そろりそろりと、つかまるところまで移動を。

 その後は、脚ではなく、腕の力を主に使って、立ち上がるのである。
 毎朝、直立二足歩行までの道のり、いわば人類の誕生を、否が応でも、しみじみと痛烈に味わっているのだ。


■日常生活を送る上で、腰がどれほど重要な役割を担ってきたか、痛感しているわけだが、あ、肩をいためたときにも、そう感じていたか。
 いや、手の小指のときも。
「指は、身体の一部だが、その一部がなくなれば、全体のバランスが崩れるほど、重要な一部」と、思ったものだ。
 つまり、身体の部位のどれもが、腰同様、要なのだなと。

 ただ、と思う。
 ただ、そればかりでもないなと。


■単に寝ていることに倦み、公園へ行ったときのことだ。
 全身に痛みが走らないように、要は痛みに貫かれないように、身体の内部の動きを体感しつつ、ていねいに歩くこととなった。
 結果、いつもとは違う充実感に浸れたのである。
 ていねいさ故だろう。

 腰をないものと想像しつつ、歩く――。
 つまり、腰をかばう過程で、他の眠っていた部位の役割を再発見したのである。

 例えば、地下足袋を履いての歩行だったためか、足裏で土をつかむ感覚が甦ってきたのだった。
 そうした一連のことを学び直したのである。
 これは、太極拳でもよく言われることなのだが、「ああ、こうして歩くと、随分と違うな、安定感があるな」と。

 この体験は、眠っていた他の部位の役割の開花とも言えるだろうか。
 ただし、偏った力の使い方をして、他の部位に負担をかけ過ぎないことが寛容か。
 そうでないと、今度はあちこちをいためてしまいかねない。


■もっとも、自覚していなかっただけで、身体は自然と、あれこれ操作してくれていたのだろう。
 いや、労働まみれで生きてきたから、むしろ妙な癖がついているはずだ。
「まずは、その是正だな」

 つまりは、以上のように思えるところまで、腰痛は、わたしを連れてきてくれたのだった。
 とはいえ、「ありがとう、腰痛」みたいなことは言わないけれど。
 だって、まだ痛い^^。
  それにしても、咳ひとつするにも、全身が関わっているのだなと。


【追記】
 膝をいためたとき、学んだことがある。
 椅子に座っていて、立ち上がる際、からだを気持ち、前傾させ、尻から上げていくと、存外、楽に立ち上がれるといったようなことだ。

 が、腰をかばう場合は、やはり頭のてっぺんが引っ張り上げられるように、ゆっくりと上方へ、ももの力を使って立ち上がったほうが、よさそうである。

 といったように、あれこれ工夫しながら、移動を重ねているのではあった。

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